日本の源流を求めて・・・

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2012年8月21日(火)
出雲の歴史

京都国立博物館の大出雲展。
展示物は日本という国の成り立ちが見えてくる弥生時代、古墳時代を経て近くは江戸時代までのものもある。

しかし、出雲ということでは神話の時代弥生時代が中心的話題であることは間違いない。荒神谷遺跡出土のおびただしい数の銅剣、加茂岩倉遺跡の不思議な銅鐸、そしてピカピカ光るレプリカの銅鐸、銅剣。

そして圧巻は、次の2つの展示物。
ひとつは「雲太、和ニ、京三」の日本太郎こと出雲大社のウズ柱。これは鎌倉時代のものらしい。

もうひとつは出雲大社の復元模型。以前、大林組が復元図を作成して話題になったものを、これは地元の高校で作成した確か10分の1の模型。ということは4.8mもあるということか。

この2点はなぜか写真OKで、新聞掲載のウズ柱の貴重な写真を頂いた。ただ残念なことは、入り口をヤマタノオロチ退治のスサノオの命絵図が飾った割には、出雲大社の主役大国主命に関連する物が
ほとんど無かったこと。

もちろん展示の古事記や出雲風土記には記述で登場するが、もともと実存の絵図は少ないのであろうか。

ここは出雲の勢力を過小評価してきた近代日本の歴史に原因があるかもしれない。





2012年2月11日(土)
気功に学ぶ気の持ち方
先日、術後の養生の意味もあり、ネットでいろいろ症状のニュアンスを変え検索した結果、最適ヒットが気功、整体そしてカイロプラクティクだった。肩こりの時には、マッサージ、鍼灸、整体、カイロプラクティクと殆どのところに行った記憶がある。

さて今回、昨年来理解に苦しんでいる気功、これに挑戦してみる「気」になり、近くにできた整体と気功の治療院に足を運んでみた。結果的には、「気」の持ちようかどうか不明なるも痛みは和らいだように感じる。

気功の初歩的なものに小周天という呼吸法があり、これは私も入院中繰り返し行ったもの。体内に気(空気)をめぐらすことによる簡単な健康法である。

気といっても怪しいものではなく、元気、気持、気分、気概とか人の内部に潜むものの総体を言っているように思う。景気不景気は字の如く人の気持の現れ、とされるように「気」は大切な考え方なのであろう。

不動産、住宅は特に、こちらは気の持ち方ではなく、サーキュレーションという意味。空気を家中に循環させることが大切であり、あまりに機密性が高いと結露し耐久性が落ちる。パッシブという考え方、私も賛同しているところ。1%の工務店のおやじのブログここに詳しい。

このこと左様に、お金も循環することに意義があり、今のようにお金の経脈(道筋)が動脈硬化しているようでは景「気」もよくならない。

政府を批判しても仕方がないが、動脈硬化箇所はわかっているにもかかわらず処置できない、この痛みを和らげる気功師はいないものか。

私の痛みを和らげていただいたのは「阪神あわじ」時の総理似の翁、古武道では関口流の使い手であるという。古武道談義で盛りあがり3時間も費やすはめに、単純なものでこれが元気になった原因かもしれない。
2011年10月16日(日)
玄武神社と物件調査
京都は上京区、堀川通紫明あたりへお客様と物件調査。
物件調査もそこそこお客様は先にお帰り頂き、以前からその存在は気になっていた玄武神社へ。

玄武、青龍、白虎、朱雀といえば、中国古来の「陰陽五行説」による東西南北を守る四神であり、玄武はその中でも亀に蛇が巻き付いた形で京都では有名である。

平安遷都に当たり「陰陽五行説」を取り入れた桓武天皇はこの京都に四神相応の地を確信したという。

北の玄武神、東の青龍神、南の朱雀神、西の白虎神。この玄武神は船岡山に想定されるらしいが、他の神々を冠した神社がないことを考えれば後年(平安後期らしい)にして近隣に良くぞ建立したものである。

しかし、流石に住宅街。裏にはマンションが。
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2011年7月26日(火)
希少種だからの献血習慣
日本国民の血液型分布は、皆さんご存知の通り大体は、A型40%、O型30%、
B型20%、AB型10%となっている。

これは遠い昔の縄文から弥生にかけての大陸からの移住、
いやその昔の石器時代にまでさかのぼる
大陸や南方からの人の移住による「混血」の賜物かもしれない。

血液型は地域民族により偏重があると聞く。
もしかすると日本も北海道、東日本、西日本、沖縄の括りで細分化すれば
このAOB式割合も変ってくるのかもしれない。

弥生人の特性が強いA型40%、その特質を持つO型30%、
そして弥生人に虐げられた?縄文人のB型20%とAB型10%、
と分類できそうである。

先日、形質縄文人として血液提供してきた。
夏は蚊に吸われるためか(笑)献血が少ないという。

幾つになっても男性は注射嫌いだとか。
まぁしかし年に3回の追加健康チェックと思えばよかろう。

2011年6月15日(水)
親鸞聖人750回大恩忌

私共の事務所は七条通にあり、ちょうど東本願寺と西本願寺の間にあります。

今年3月から始まった親鸞750回忌法要。
法然上人800回忌法要とあわせ京都もてんやわんやと思いきや。

東本願寺は先月で主要行事はほぼ終わり期間中は約50万人の人出であったとか。
法要が始まる直前には東日本大震災があり開催を日延べしたり、
趣を震災供養としたこともあり全体に自粛ムードだったことが影響し
当初の目論見を下回ったのではないでしょうか。

私個人としては10分の一程度になったのではないかと思っています。

西本願寺はまだ行事は終わっていません。
東本願寺とは1ヶ月ほど遅く始まったこともあり
出足はまだ良いほうだったように見えましたが・・・。
もうしばらく期待したいものです。

寺社仏閣は京都観光の目玉です。しかもこのような100年に1回の行事、
盛り上げてもらいたいですね。

西本願寺親鸞750回忌
2011年4月22日(金)
不老長寿は古の昔から永遠の課題!
3月は東日本大震災があったものの、久方ぶりに献血ルームの入り口に「足りてます」の張り紙。

こんなこともあるのかと、がっかりしている間に4月も下旬になりました。
そして今月19日献血敢行です。私の縄文の濃い血液を牛乳瓶2本ほど採血してもらいましょう。

年3回で、1ヶ月遅れでも結局、目標までの工程?に影響はありません。

また、震災に関連して、血液需要は災害の全容がハッキリしてからのほうがあるのだとも聞いています。いまが必要は時なのです。

それぞれ協力できる人ができるときに無理なく出来ればそれで良いですよね。
ボランティアですから。

それにしても、
男は実際血を見ると良い意味でも悪い意味でも冷静さを失います。

それだけ血を見る機会がないということなのでしょうが、女性は生理があり見慣れているといいます。

実はその生理が男性より平均寿命で6〜7才でしょうか、長くしていると言う方も存在します。というのは、出血で血液の再生が出来ているのだと。
しかし、真偽は検証できません。(>_<)

献血で男性も血液の活性化を図り、長生きというよりも女性に負けないくらい長くこころも体を健康を維持しましょう、ということです。

ところで最近の私の過去1年間の献血データを見てみると、3回すべて月の19日なのですが、これは月の満ち干きや体内地磁気とでも関係があるかのようですが・・・・
2011年2月16日(水)
四神相応の地
最近、北区の収益マンション物件にご縁があり、電車で出かけている。京都駅から北大路駅まで地下鉄で15分足らず、ミニサイクルでも45分程度と京都も狭いものだとつくづく思う。

賀茂川に架かる橋からの景色は結構お気に入りで、特にこの北大路橋や北山橋からの景色は南北に見通しがよく、ビル群も少なく目にやさしい。

北の空は玄武雲にしっかり守られている。(;^_^A
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南は朱雀が東の青龍にからかわれ、それを西の白虎が待ち構えるかのような雲。(*゚ー゚)ゞ
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不動産投資家の仲間内で、京都の災害の少なさが地域リスク分散に役立っているという考え方の人もいる。

まさかこの四神相応という中国の風水の考え方が功を奏しているとは考えにくいが、緩やかな山に囲まれた扇状地状の盆地という立地条件が大きな災害を発生しにくくしている原因ではなかろうか。

桓武天皇も母親や昔の言い伝えを遵守し良い場所に遷都した、ということなのでしょう。(^人^)

2011年1月27日(木)
日本の原点 卑弥呼の供物?朝どれ魚
先週土曜日の読売新聞の一面に、又もや卑弥呼もの記事。


地元版記事は邪馬台国畿内説である。当然に纏向遺跡が邪馬台国であり、宮殿らしき大型建物跡が見つかりそこに山海の珍味が出ればそれは祭祀跡の供物なのである。

その真偽は後日の研究結果待ちとして、社会面にまで「大阪湾から朝どれ魚」が「纏向まで半日」で「多種大量」に届けてしまう強大な権力者をイメージさせている。

これは平城遷都1300年祭時の奈良時代の献立。写りは悪いものの、解るのは権力者は豪華な食事献立であるということ。
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以前、古代人の糞から食生活、体内細菌そして古代人の体質等小さなことから大きな結果が得られたことがあった。

この食べ物痕跡の分析からの結果に今後期待が高まることは間違いない。

邪馬台国の候補地・纒向遺跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)/石野 博信 ¥1,575 Amazon.co.jp

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2011年1月10日(月)
瀬戸内海航路と大分日田そして邪馬台国
普段は殆ど見なくなったTVでも、この年末年始はお世話になり、そしてその久しぶりに見たケンミンショウ。

特に大分県の話題に釘付けとなった。大分は九州ではない、というようなニュアンスだったと思う。

言葉の訛り、文化そして目線の先。どうも豊後水道の先、瀬戸内方面だという。

いくら一個人ないし一部の意見とはいえ、人々の生活様式潮流が瀬戸内からもたらされている?

いまだに読み返している関祐二著「物部氏の正体」の邪馬台国建国過程の記述部分によれば、それこそ畿内勢力が瀬戸内から上陸し大分東部の日田を拠点とすることの重要性を強く説いている。

その意味は北九州勢力の背後を取ることでのにらみないし急襲にあったのではないかと。

その勢力がトヨなのか?なぜ攻めるのか等は又の機会として、この瀬戸内航路が一般的交通手段としての「道」的存在だったことを想像させるに十分であったこと、
これが収穫であった。

日田は東から西を攻めるに絶好の要塞となりうる地であり、
瀬戸内「道」から文物が日田そして大分に持ち込まれた可能性が高い。
また、日田の重要性は江戸時代まで天領であったことでも解る。

何気なく見たTVに日田大分文化の伝承過程が垣間見えたのではなかろうか。
生活実態からの情報は臨場感がある。
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2010年12月2日(木)
奈良県御所市秋津遺跡
11月28日の日曜日10時から、大和王権の大豪族葛城氏の王宮らしき遺跡の現地説明会が開催された。

奈良県でも御所市は橿原市の南、千本桜の吉野の北に位置し大阪南部河内にも近い。京都からはJRで2時間の小旅行となる。

京都盆地から桜井市の箸墓古墳、大国主命の三輪山から橿原神宮そして葛城地区と、見所の多いハイキングコースを横目にJR万葉まほろば線でJR玉出駅まで。

新聞報道によれば、「空白の4世紀」古墳時代前期としては最大級の遺跡群、ややもすれば葛城氏の王宮跡の可能性もあると。
奈良南部から大阪南部はその昔から葛城氏の本拠地であり地名は今でも残る。

十数棟の建物群が発見され、空白の4世紀のなぞも解明されるのであろうか、との淡い期待も現実はまだまだこれからの作業で、新聞報道はセンセーショナルに期待を込めて煽るのがお仕事のようである。

確かに、昨年見つかった方形区画の遺構に連続して、やはり同じく方形施設跡が複数見つかっています。時代背景から考察するとかなり大きな建物跡である点、何度も建て替えしていることから限られた使用が推定されるということ。

南北が100m、東西に120mという大規模なもの。今後の新しい発見が待たれます。

現在読み込んでいる関祐二著「物部の正体」、この物部氏との勢力圏や素性との関連性も思い描きながらの万葉の小旅であった。

物部氏の正体 (新潮文庫)/関 裕二



2010年11月26日(金)
天穂日命(アメノホヒノミコト)神社
天孫降臨の以前、大国主命の地上界平定を任された天穂日命、その名を冠した神社が何とマンション調査の途中に目の前に。

場所は京都市と宇治市の境、ラルス京都六地蔵リスタシアマンションの近所。

天穂日命は天照大神の子として任務を遂行できなかったどころか天孫降臨後は大国主命を祀った天日隅宮の祠官になったと言い、今で言えば恭順ということか。

この天日隅宮が現在の出雲大社といわれているが、異論もある。
この件は後日又話題にするとしても、面白いのは現在の祭神が天照大明神、大山咋神としていること。

明治時代に田中神社石田神社から現在の天穂日命神社へ変遷しているといい、天照と天穂日命の親子関係の修復を慮ったのであろうか。

しかしながら、命の名が付く神社も珍しいのでは?
しかも小さいながら式内社となっている。

犬も歩けば棒にあたるとはこういうこと、と思いつつ狭い境内を後にした。

六地蔵マンション近所
2010年11月8日(月)
奈良遷都1300年祭

1300年祭も大詰めで、平城宮跡でのイベントは11月7日までだと。
近くでいつでも行けると思いきやもうラストウィークとなった。

しかも光明皇后の正倉院「展」も開催中である。

祝日で混雑は覚悟でついに動くことに。いつもお邪魔するJR桜井線側、1700年前コース巻向〜桜井三輪山のローカル線の旅とは違い奈良でも仏教文化の花咲く雅コースのようなもの。

古い発掘現場や古墳や三角縁神獣鏡を見て回る歴史音痴の私にその平城京という先端雅都市が理解できるか?やはり時代的つながり背景が理解できないと面白くないですよね。

少しは予備知識を入れながら、何も無い昔の平城宮跡の変貌を想像してみる。

すると、奈良の都は逐一移動しているように見える。極端に言えば1天皇・豪族で1都市形成し、代が変わればセント君。(*^.^*)
だというイメージ。

だいたい1300年祭会場である平城宮跡が京都遷都のち今まで更地のままだったのが不思議である。

片や京都平安京跡は同じ場所で作っては壊しの繰り返しで空間的移動は無い。

その辺が平城京と平安京の違いかなぁ、と素人は考えてしまう。
そしてそこからも観光に対してのアプローチの違いも出てきているのでは無かろうかと、想像している。

2010年9月27日(月)
大量の桃の種と卑弥呼
先日、奈良県桜井市の纏向遺跡で標題のものが穴に埋められた状態で発見されたらしい。おびただしい量の桃の種であるが、大きさは今の桃よりかなり小さくピンポン玉程度だという。

それにしてもかなりなものであろう。写真ではこんな感じである。


報道ではこの種が食べたものではなく、祭祀用に集められ儀式が終わった後そのまま穴に埋められたものであろうと。果肉が残ったものや青い未成熟の桃もあったらしい。

2000年のときを経て今現れたもので、よほど保存に適した条件でないと出てくるのもではない。

今回も発掘されたのは地図を見る限り、JP巻向駅近くの昨年から調査中の大型建物跡の近くのようだ。その意味では、近辺の発掘でまだまだ期待がもてると思うと今後がより楽しみである。
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2010年8月28日(土)
日本の黎明期

最近のニュースを見るにつけ暗い話題が多い。

先日タイミングを見計らったような久々の卑弥呼話題を見つけた。

通称三国志魏志倭人伝に記載の倭国乱れその後女王卑弥呼が共立されたとある紀元2〜3世紀にかけての気候変動が判明したと。
その時期のものとされる木の年輪から年単位で降水量を計ることができたらしい。

その研究から類推されるのは、このころの気候変動つまりは周期的な干ばつや大雨で社会情勢が不安定になり女王卑弥呼共立に至ったのではないかと。

以前から卑弥呼共立以前の「倭国乱れ」の背景については合理的な論文がなかっただけに気候変動や降水量に裏づけされた考え方は注目に値する。

その混乱の中で諸部族の代表として三国志のいう「鬼道に長けた」卑弥呼が共立されたならつじつまが合う。

こういう考古学的な発見研究と神話や文献との照らし合わせは今後の日本の黎明期を解明するに有効であり、そして楽しみでもある。

卑弥呼の出自
2010年8月6日(金)
弥生の里山 時空を越えて
このタイトル「時空を超えて」がなんともなまなましく、また、昔の空を連想する清々しさがありますね。

昨日8月5日読売新聞の1面トップ記事タイトルである。奈良県御所市の中西遺跡ということでは西日本版のみでしょうか。

紀元前400年頃の弥生人の裸足で歩いた足跡が見つかったそうな。

2400年前の生活痕跡が偶然残り、そして発掘は橿研により計画的に創造的になされたと想われます。エールを送ります。

立木を切りやすくする為、燃やし炭化させた後伐採したようです。その周囲を裸足で何回か周っているのは信仰と無関係ではないとの指摘もあります。

どうも裸足で木の周りを何か唱えながら周っている姿からはニューギニアやアマゾンの原住民を思い描いてしまいますが、失礼ながら草食系農耕民族の弥生人にはあのエネルギッシュさはない、と考えます。

イメージは左のイラスト→
2010年7月13日(火)
祇園祭
祇園祭は平安時代に疫病・怨霊を鎮めるために祇園社の祭礼として始まり、以降、民衆により趣向を凝らした装飾で山や鉾で巡行・行列し、人びとの注目を集めるようになったとのこと。

現在は32基とのことですが、応仁の乱の前には50基以上もの山鉾が巡行したと記録されています。実はこの祇園祭、山鉾巡行の17日が有名ですが、鉾町や八坂神社では7月1日からから31日までの一ヶ月に及ぶ行事が執り行われています。

平安遷都の昔、桓武天皇は幾重にも平安京の守護を祈願・腐心していたようです。平安京が四神に守られた地形にもかかわらず、四方に大将軍神社を配置し、かつ鬼門の北東方向には比叡山延暦寺を配するという徹底ぶりです。この祇園祭もその一環だったのかもしれませんね。

日本の歴史は、恥と怨霊の歴史だとの言い方もあるくらいに、怨霊に対する警戒感は重みがあります。人間の弱さの現われかもしれませんが・・・

桓武天皇の場合は早良親王(崇道天皇)に対する鎮魂か?ともいわれていますが、余程のことだったと推測されます。

7月13日現在の鉾建て状況
2010年6月18日(金)
何でもあり・・・
不動産業者に騙される前に・・・(原文は不動産屋)
を枕詞に情報商材を売らんかな。キャッチコピーになっているようです。

基本的には経済自由の原則、自社商品の販売活動には比較広告も必要であろう。しかしその実、現在の日本社会におけるいわゆる比較広告の通例慣例は、下位が上位を攻め上げる、ないしは、先行する企業を後発が追いかけるため、という図式で私は見ています。

先行するリーディングカンパニーが後ろから追ってくる企業・集団をマキビシで蹴散らすとは独禁法違反も考えられるというもの。※大げさだね〜。( ̄_ ̄ i)

もともと日本社会において比較広告というものは根付かないのではないか、というのが私の持論です。

集団的稲作が始まる弥生時代よりこの方、発想は集団的農耕民族よろしく相互協力社会を形成してきた。
聖徳太子の言を取り上げるまでもなく。

他人を蹴落とすのではなく、相手に対する配慮を保ちながら共存してきたように思います。

たまたま先日の読売新聞解説委員橋本「五郎ワールド」。プロボクシングのカシアス内藤選手の「日本人的優しさ」と「小沢氏はなぜ嫌われる」を対比して取り上げています。

それはホリエモンや村上ファンドの村上氏を見ても分かるように、何でもありの世界は羨ましくもあり、簡単には許容できない日本人の性なのかもしれないと感じます。
今はまだ、と付け加えておきます。
窓越しに見える京都タワー
2010年6月4日(金)
大国主命は・・・
先日の読売新聞情報によれば、「知的情熱 自説も覆す」の見出しで梅原猛氏の著書「葬られた王朝」を紹介しています。

過去に発表した自説を訂正するという離れ業に「意気軒昂」と好意的です。

梅原猛氏といえば、日本の思想界をリードする重鎮、文化勲章受章者、哲学者です。過去の立場実績を省みず自説を訂正するには膨大なエネルギーと勇気が必要です。

比較するもおこがましいが、最近では経済学者の中谷巌氏の例があります。彼の場合は「転向」と受け止められましたね。そこは人徳の違いでしょうか。

で、訂正した内容というのは、大国主命の出雲王国を肯定するというものですが、原因には考古学的発見と神話的伝承の照らし合わせがあります。

氏も検証したとおり、考古学的発見は、年々、発掘と分析方法の進歩により新事実を紡いでいきます。ですから考え方の進捗は仕方のないことですね。

歳はとっても知的好奇心旺盛な梅原氏にはまだまだ古代史の謎に向い合って頂きたいものです。
2010年5月26日(水)
源流と分水嶺
川の流れは絶えずしてもとの水にあらず、澱みに浮かぶ泡沫は・・・・

その川の源流を見たという人は少なからず居るように思います。しかし、その川の源流が「方や右に方や左に」という様を見た方は少ないのではないでしょうか。

しかもそれが流れ流れて一方は日本海へ、一方は太平洋へ、となればロマンチックそのものです。

さほど距離もない場所に落ちた雨水や地下から湧き出た水が何の因果か日本海と太平洋に分かれると思うと感慨深いものがあります。

その昔、偽学生?だったころ無性に見てみたい衝動に駆られ、取るものもとりあえず電車に乗り、その頃よく旅をした信州長野へ向かった覚えがあります。
結果は、山歩きしただけ、に終わりましたが、この源流の流域の分かれ目である分水嶺と言う言葉が鮮烈に私の脳に収まりました。

そして戦利品もありました。信州の山から下り、訪ねた新潟の山里の高校で地理を教える先生からもらった「高等地図帳」。分水嶺が見れる場所を記載してもらったもの。。。

この頃から源流に興味を持ったような。
京都の鴨川に鯉が大量繁殖
2010年4月12日(月)
ゲストハウス&シェアーハウス

ゲストハウスやシェアーハウスが増えてきましたね。特に京都は観光都市ということもあり、短期滞在にはゲストハウスが選択されているようです。一点集中型滞在ということで宿泊コストをできるだけ抑えたいのは全地球的に考えることは皆同じようです。

朝晩になるとバックパッカー風旅行者やバックを曳く小集団がやたら目に付きます。一昔前なら、団体で駅前ホテルや大型ホテルに直行で目に付くこともなかった旅行者が、ゲストハウスやプチ旅館へ行く過程で人目に見えるようになりました。

そしてゲストハウスの活況を見てかどうか、国内旅行者や出張ビジネスマンにも受け入れられているようです。

不動産の有効活用です。どんどん時間的空間的ロットが短く小さくなってきています。有り余る不動産をいかに有効活用していくかが今後の課題ですね。

2010年3月11日(木)
強いものは生き残れない

人間の原点回帰を訴えるかの環境変動説。
もともと人間は協同作業をしながら環境適応し、社会言いかえれば「利他社会」を形成してきた。

しかし、現在、個人の利益追求が中心となり、「利己社会」に突き進んでいることは社会を崩壊させる方向性をはらんでいるのか?

自己矛盾ともいえる人間の性に、「環境」は専門としても「道徳」までも論じるところには、吉村仁の生物学者にして哲学的なにおいが感じられ、標題の著書は進化論のバイブルとも感じられる。

繰り返し読み返したい良書である。

2010年2月27日(土)
東風吹かば にほいおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ

古くから伝わる怨霊の世界。その中でも最大規模の「怨念」の持ち主が菅原道真公。
下京区に菅大臣神社という道真公生誕の地ともいわれる菅大臣神社がありますが、現財務大臣が国会で指名されるたびに思い起されます。

この最大規模の「怨霊」を収める為に創建されたのが北野天満宮。2月25日は命日の梅花祭も執り行われたようです。長岡京遷都の崇導天皇こと早良親王も亡くなってから「おくりな」が贈られています。
道真公も平安京に災難があるたびに怨霊として祀り上げられ、生前の右大臣格から左大臣そして太政大臣へと行政官のトップまで登り詰めています。
当時の時代背景つまりは権力闘争とその対応には今に通じるものがあるようです。
右は境内の長五郎餅、伊勢の「赤福」に通じる味の良さです。



2010年2月6日(土)
西暦248年とは

西暦248年に日本で日食があったということは科学的に証明できるそうです。
そしてその年、それは中国魏の時代の正始8年のことで、倭国の卑弥呼がなくなっていると三国志魏志編倭人の条に綴られているという。

古事記で記載されている天照大神の天岩戸事件が日食を表現しているとすれば、女王卑弥呼と女神天照に共通性があると考えるのは不思議ではないでしょう。

古の時代、日中急に暗くなる現象を神と関連づけ大騒ぎすることは、昨年悪石島皆既日食ツアーが大盛況だったことも考え合わせると納得します。


2010年1月23日(土)

吉野ヶ里遺跡、纏向遺跡そして三内丸山遺跡は大和政権以前の日本の国の成り立ちを探る上で欠かせない重要遺跡です。

その吉野ヶ里と纏向双方関係者はともに「卑弥呼の邪馬台国は我が方」と言ってはばからない。その邪馬台国卑弥呼は三国志魏書東夷伝倭人条に登場してくる。そして当然ながら魏呉蜀の英雄が活躍した戦国時代に卑弥呼も活躍していたことになる。

しかし、その当時の復元貫頭衣等の衣服や住居を見るにつけ、三国志の都市ロケーションとの違いを痛感してしまう。特に住居等建築物については三匹の子豚並みの違いがある。

卑弥呼も多分そう思ったに違いない。だからこの朝貢により日本の国家としての姿形が整えられ、その後の目覚ましい建築土木技術の流入を見るにいたったのでは。謎の4・5世紀をへて大阪南部に巨大古墳が出現することになるのだから。

2010年1月5日(火)
井沢式「日本史入門」

「逆説の日本史」井沢元彦氏がその著書を読みやすくした単行本が出ました。

今さら日本史入門でもなかろうに、この本、逆説全19巻を俯瞰、補てんするために再構築したものだという。今のところ徳間文庫からナンバー2まで出ているようです。

歴史的事実を深読みできる素養と事実を大胆に切る発想は特筆ものでしょう。日本人のルーツから現代までの事柄を縦横無尽にタイムトラベルする書き方は、読み手を妙に納得させる表現方法です。

昔起こった事件が今によみがえることは日常茶飯事。歴史の連続性を常に考えている氏の歴史観に興味を持つこと間違いなし。日本の源流が浮かんできます。


2009年12月17日(木)
日本辺境論

あちこちの本屋さんでベストセラーにランクインの内田樹の近著です。

本人もあとがきで言っているように、終盤力が入ったようで、「ぼく」から「私」と主語を変更させねばならないほど
哲学的な言い回し方でエスカレートした著書のようです。

日本人ほど周りを意識し過ぎる人種はいないと。ただそれが上位者からの学びと結びつきキャッチアップ思考となるも、主体性がないと。

この性質は日本が魏の冊封体制に組み込まれ、表意文字を受け入れた時から始まるといい、既にこの方2000年日本の伝統になっているものであるとも。

たしかに現在の政治・経済の色んなシーンを見ていても、政策・方針は独自路線からではなく他者との比較から始まっている。そしてそれをうまくコントロールもしているのも事実。

そして、日本人とは何か、日本人論、こういうジャンルが持てはやされるのも日本独自の傾向で、かたや中国ではこういう議論が活発でないのは華夷思想に基づくものであると。

偏狭なナショナリズムではなく、歴史や事実の収斂の中で熟成された方向性を尊重しつつ、事柄の本質を自分の意見で自分の言葉で語れるようにならないといけないと言いたいのでしょう。

大きなテーマだけにあちこち内包する小テーマがあることも確か。自分を考える材料にも良いかもしれませんね。(笑:日本人の典型です)

2009年12月12日(土)
日本人のDNAと土地活用

以前から古代史研究者により史実からも検証されていたことが、科学的にも立証されたようである。
その読売新聞の要旨は、日本人のDNAは「本土型」「琉球型」の2分類に大別されるというもの。

ご存知の方も多いことではあるが、「本土型」は「髪の毛が硬く・乾いた耳あか」で、「琉球型」はその逆だと。地域分布では北海道はほとんど「本土型」で、近畿・九州は「本土型」「琉球型」が混在。
沖縄地方はほとんどが「琉球型」。そして「本土型」のほうが中国人と遺伝的に近いと。

このことからも、日本人の大方のルーツは、大陸から東シナ海や朝鮮半島を経てやってきた、「その後弥生人といわれる渡来人」と思われる。

北九州から渡来した弥生人が先住民族である縄文人を同化していくことで、日本列島を侵食していったといわれる。その追い詰めた極限が列島の南端と北端である。

※この検証にはアイヌの方の調査が必要であり、その結果が「ほとんど琉球型」でないと困るが。そのころに今の日本の代表的な姿が形成され、現在に繋がる集団水郷稲作という不動産活用(小作)が始まる。

狩猟を重きに置く縄文人には、定着農法はほとんど見当たらない。

それから延々明治時代までの約2000年間不動産は所有ではなく、小作・賃貸が中心であった。
それこそ集団稲作に始まる賃貸の考え方が日本人のルーツではなかろうか。

信託業法も先年改正されたこともあり、新たな収益還元の考え方ができないかなぁ、と不動産の波が来る度に思う。

無理やりでも不動産に繋げます。m(u_u)m

2009年12月7日(月)
平城京の役人の住居から

今から1300年前の奈良時代下級役人の生活実態、という読売新聞の記事が目に停まりました。

敷地は広く家屋は狭いものの家賃はタダだったようです。職場まではドアツードアで1時間ということも影響しているのか、初位下という最下級の役人でも土地の広さは64分の1町の約250uだったとか。

人口は今と比べようがなく比較はしにくいのですが、土地は75坪もあったのですね。
うらやましい限りです。

収入の方といえば、米価から想定した金額では年収は230万円程度だという。住居負担がないということでは現在の公務員宿舎に充当し、今に通じる生活感覚です。余禄としては広い庭先で野菜等を栽培し家計を補っていたということでしょうか。
日本の生活実態の連綿とした歴史伝承がうかがわれます。

2009年12月1日(火)
最古の土地売買契約書

数年前に、法隆寺に隣接する土地の売買を記録する契約書が見つかったとのニュースを聞いたことがある。
多分これが現存する不動産契約書の最古のものだろうということでした。

時代は平安時代の西暦900年代の頃。都は京都に遷り、
奈良の宗教的存在をつなぎ止めておくためにも寺領確保が
必要だったとも言われていました。

内容の分析を是非ともお知らせして頂きたいものです。
有力者が6人が保証人として署名立会い、首長印があったとか。
その当時は不動産売買も格式があったようですね。

2009年11月27日(金)
9億円・・・

今朝の新聞報道で驚嘆された方も多いのではないでしょうか。首相が、5年間とはいえ9億もの桁違いのお金を母から受けていたと。
政治活動資金なのか贈与なのか、今までの疑惑にも増して新たな疑惑が出てきています。

いくら秘書の単独行為だとしても、公設第一秘書であり、資金管理団体の会計責任者と言うところは、見逃せないと思います。

「思い」とか「理念」を語ることには好感が持てるものの、自分の政治活動のベースに関わる人間も把握できない人にすべてお任せできるのだろうか、と単純に思ってしまいます。

八坂神社
2009年11月23日(月)
契約ごとは相手を思いやって・・・

人間はすべからく悪人であり、その悪の部分を契約書面で後々の為に残す。
至極合理的で無駄がないように見えます。どこのお役所仕事にも通じるような…。

アングロサクソンを中心とした性悪説ともいえる考え方は、遠い昔の縄文人と弥生人の緩やかな融合、明治維新の大きな変革時にあっての大衆の受け入れ方、そして今回の政権政党の交代という穏やかな社会の変革とは相いれないものだと考えられます。

ある意味性善説に則った行動形態が日本人には似合うのかもしれませんね。
完全契約社会のぎすぎすした社会構成よりも、YESでもないNOでもないという選択肢があっても良いのではと。

あくまでも契約書面は最低限の取り決めだと、行間にはもっと大切なことが隠されているんだと斟酌して行動すれば、契約関係のもめ事も少なくなるのではないでしょうか。

最近のQ&Aを担当して感じました。




2009年11月14日(土)
普天間問題

米国大統領オバマ氏来日で一段と普天間問題に日本中がイライラしています。
趨勢は皆さん見えているようにも思えますが、政権内部のみ割れていますね。
公約を履行する姿勢は貫きたいということでの、昔自民党が良く使ったガス抜き
という手法でしょうか。

ところで普天間、辺野古、宜野湾等沖縄には3文字地名が多いですね。
北海道もそうですね。富良野、岩見沢等。察するにこれも縄文人共通の痕跡でしょうか。
地名というものは、縄文の時代から場所の特性を区別するため付けたもので、
よび名は不変ともいいます。
地域の特性が今でも残っていると思うと感慨深いですね。

最終的な移転先になるであろう辺野古のキャンプジュアブ、これは米軍のベトナム戦争で活躍した方の兵士から取ったということを聞いたことがあります。日本では亡くなった人を神社の名称にするという事はありましたが、ものの考え方の違いはこんなことにも現れます。
ハイレベル協議でいつ決着が付くのでしょうか。

2009年11月13日(金)
京都不動産コンサルタントからの情報

先の11日のニュースによれば、予想通りとも言える発掘の記事がありました。
纏向遺跡から3世紀前期から中期のものとみられる大型の建物跡が見つかったと。これは今年3月の調査の続編ということですが、地道な現場主義の中から、遠い存在である卑弥呼に近付いたという証拠になればいいのですが。今後の新たな発掘が待たれますね。

写真は3月の現地説明会の様子
写真右側を今回発掘したようですね