古代史神獣会について
神獣とは:三角縁神獣鏡のことで、ハイキング・ウォーキングをしながらも古墳・遺跡等を横目で見ることを忘れないようにとの思いで命名
■随時入会受付 ■年会費:なし(交通費等実費)
古代史神獣会は、会員有志が主に京都奈良の自然、歴史、文化などを、思い思いのスタイルで自由にハイキングやウォーキングを楽しんで健康的でアクティブなライフスタイルを過ごすことを目的とし、相互に啓蒙しあうサークルです。
さあ、一緒に、自由に飛び回ってみませんか!
入 会 特 典!
主な歴史散策・ハイキング等の企画が主体的にできます
■問合せ 
古代史神獣会 075-365-2577
taka3652552@yahoo.co.jp

天照大御神


現代の天皇の先祖といわれる『古事記』神話のヒロインであり、古代日本の原型作りに欠かせない人物(神)。天孫降臨で高天の原から地上に下った爾爾芸(ににぎ)の命は、彼女のお孫さん。そして、出雲でヤマタノオロチを退治するのは、彼女の弟のスサノオノミコト。そのスサノオノミコトの行状に業をいやしての事件、「岩戸隠れの事件」。これを分析してみると、神話の世界と歴史の世界がオーバーラップするという。古代歴史の世界のヒロインである卑弥呼との同一性の比較である。
二人の一致点は@活躍する時期が似ているA二人とも女性であるBともに宗教的裏付けがあるC独身であるDどちらも弟がいた。などである。・・・安本美典著「封印された邪馬台国」参照
この「天照大御神が卑弥呼か?」という刺激的なテーマを、今後掲げてみたいと思う
(H12/9/27頃)


画文帯神獣鏡

(がもんたいしんじゅうきょう)

平縁の鏡で、縁の部分に絵画的な文様帯が描かれている神獣鏡の一種。一節にはこの画文帯神獣鏡が「卑弥呼の鏡」だという意見もある。(H12/9/27頃)
出土状況)


魏志倭人伝

魏志倭人伝は、中国の正史の一つである「三国志」の倭の国について書かれている部分をクローズアップさせた通称である。「三国志」の中の「魏志」にある「倭人条」として記載されている部分のこと。「三国志」はご存知、魏・呉・蜀の国獲りの歴史書である。「三国志」のその他「呉志」「蜀志」には倭人伝がないのだろうか。さすがに権勢を誇った魏の曹操の影響か、対外的な交渉は後漢の勢力図をそのまま受け継いだのか、はたまた、単なる地理的な利便性だけだろうか、いずれにしろ「三国志」のなかの残存国は魏の国だけではある。勝者の歴史という面を考えざるをえない。そのような環境の中で書かれた「三国志」にどれだけのことが記載されてあり、また、どれだけのことが隠されているのかを考えるのも良い。できるだけ、当時の三国志の環境を考えた上で、倭人の項を読み解きたい(H12/9/27頃)


卑 弥 呼
(ひみこ)

この時代の主なことはどうしても、中国の「魏志倭人伝」を参考にせざるを得ない。そのなかにも、「鬼道をして、よく衆を惑わす」とあるように、卑弥呼には特別な神通力があったようである。これは、当時、中国でも日本でも同じだが、このような神霊的思考がすべてを支配しているような時代背景の中で、魏の人間でも特筆するというほどに卑弥呼には異常な力が備わっていたのではないか。その力で、卑弥呼は29カ国の連合国首長に、推定年齢23才で擁立された。卑弥呼は「親魏倭王」の称号と返答品を魏の明帝から下賜されたが、そのなかに、例の三角縁神獣鏡が入っていたのか等、限りない興味・ロマンの対象である。(H12/9/27頃)


方格規矩鏡
(ほうかくきくきょう)

後漢鏡の一種。平縁で内区の紐部分の外側に方形の区画(方格)をもち、その廻りに規矩文が施された鏡。(H12/9/27頃
出土状況)


古 墳
(こふん)

古代史的にいえば古墳時代といわれるように4世紀頃から5世頃の地域の首長を葬ったお墓のことであるが、ここでは、その黎明期の墳丘墓も含めてとりあげたい。2世紀後期から三世紀前期にかけての邪馬台国の時代前後。古墳の形状で最も多いのは、歴史の教科書でもおなじみの前方後円墳。形を物にうまく例えていうとよく分かる。『花瓶のような』とすると間違えない。これを『鍵穴のような』とするとネーミングと合致しない。すなわち、前の部分が方形で、後部分が円形をした古墳ということ。また、このタイプは巨大なものが多く、古墳の代表選手といってもおかしくはない。(H12/9/27頃)
種類)
規模)

状況


黒塚古墳
(くろづかこふん)

概 略 歴史音痴の私が大変なインパクトを受けた三角縁神獣鏡との、最初の出会いの場となった奈良県天理市柳本町の黒塚古墳である。
調査は、後円部を中心に1997年8月から開始された。その後1998年3月に、そのほぼ中央部分から南北方向の竪穴式石室が発見された。石室といっても、板石と河原石を用いて、両側に壁として積んだ板石を少しずつせり出すように天井を構築する、というような得意な構造である。今回、これだけの良い状態で石室が確認され、しかも沢山の副葬品が出土できたのも、
そのような構造が幸いして盗掘者を排除できたからのようである。
石室の内部からは、木棺と鏡等の副葬品が出土した。ここでは、その中で特に鏡に注目してみた。というのは鏡のうち、三角縁神獣鏡に限って言えば出土数が33枚で全国1位となっていおり、そして又、画文帯神獣鏡の1枚を加えても全国有数(3位)の青銅鏡が出土している。
識者の間でも意見が分かれるところだが、これをもってこの三角縁神獣鏡が卑弥呼の銅鏡であるとか、邪馬台国畿内説を確定させる材料であるというのはいかがか。
いずれにしろ、古代の歴史の紐解きは今後の調査を待つしかないが、夢は限りなく広がったのは間違いない。(H12/9/27頃)
データ 所在 奈良県天理市柳本町  天理市の南部付近から桜井市にかけて集中する大和古墳群のうちの1基
形状 前方後円墳
規模 全長約130m(東西) 中規模
後円部直径約72m 高さ11m
周囲は殆ど池
出土 木棺 刀剣類 鉄製品 土器 武具 工具
三角縁神獣鏡33枚
画文帯神獣鏡 1枚


三角縁神獣鏡について
(さんかくぶちしんじゅうきょう
邪馬台国時代の女王卑弥呼が、魏の明帝から下賜されたとされる100枚の鏡ではないかとされる銅鏡。平成10年1月、奈良県天理市の黒塚古墳から33枚も出土し、一躍‘卑弥呼の鏡’として脚光を浴びた。しかし、三角縁神獣鏡に限っても、出土数では第2位の京都府山城町の椿井大塚山古墳の32枚等、日本全国に散らばって出土している。また、京都府福知山市の広峰15号墳から出土した、実在しない景初4年号の紀年銘入り三角縁神獣鏡も存在すること等から、卑弥呼の鏡どころか魏の鏡かどうかも含めて、まだまだ検討の余地がありそうです。(H12/9/27頃)
出土状況)


神話の世界

第2次大戦以後のことであるらしい、戦後教育からの神話に対する特別な囲い込みともとれる隔離は(そう取られてもしかたがないのでは)。神話と史実の間には当然に違いはあるでろうが、逆に不思議と同じような趣旨と理解できる事象もある。最大のロマンは、時代背景、周囲の状況、パーソナリティ、において似通ったアイデンティティをもつ天照大御神と卑弥呼の存在であろう。卑弥呼と天照大御神は同一人物なのかどうか。そんな意見も含めて神話を見直し、史実と照らし合わせることは、日本人のアイデンティティの形成にも又日本人のルーツ探しの心の旅としても有意義ではないだろうか。今ほど日本人の帰属意識の希薄な時はない、とある人は言う。政治経済の世界では、グローバルスタンダードに表される高所からの大波に洗礼でもせよとの圧力、そして、勝ち組み負け組みに代表される優勝劣敗の世界への誘いの時。インターネットを中心とするIT革命による世界、時間、人のボーダレス化により民族ごときの自覚自負アイデンティティは不必要になるのだろうか。それともそんなセンチメンタルなことはナンセンス、と言うことになるのだろうか。しかし、少なくとも日本ないし日本人の心のふるさととしてなら存在価値を見出せるであろうし、もちろん、史実と照らし合わせた神話の信憑性にスポットライトを当てるだけでもよい。 =文中「神話」は主に「古事記」「日本書紀」(H12/9/27頃)


邪馬台国

一般的には「やまたいこく」と呼ばれ、所在地論争がいまだに続いている。主な候補地は、北部九州地区と畿内地区ということになる。第2次大戦以降のこの半世紀、論争に終止符が打たれないというのは、それだけの確たる証拠がないということ。中国の魏志倭人伝(三国志 魏書 倭人ノ条)に記載されていたという「卑弥呼の邪馬台国」、当時の書物分析の限界もあるであろう、また、考古学的な発掘・分析の限界もある。邪馬台国とヤマト政権との関係も含め、今後の研究に期待したい。(H12/9/27頃)

古事記・日本書紀

一括りに「記紀」として表示されることも多い、日本の歴史や神話についての書。私は歴史の専門家でもなんでもないので、歴史と神話の境目にボーダーラインを引かずに読んでみたい。つじつまが合う考古学的発見との関連性が、唯一自分の歴史発見となると思うとぞくぞくする。
三国志(285年頃編纂)でもそうであるが、歴史書の性格を考慮しながら紐解くのは、難解である。どちらも大和朝廷が、712年に古事記を、720年に日本書紀を著した。
(H15/3/22)

ホケノ山古墳

平成12年3月に大和古墳群調査委員会から、この古墳は3世紀中ごろに築かれた日本最古の古墳である、と発表され、考古学会の話題をさらった前方後円墳。たしか、内田康夫の推理小説「箸墓幻想」では準主役扱いだったと思うが・・・。
これまでこの古墳は3世紀後半に始めて築造されたというのが通説となっていたため、これまでより約半世紀さかのぼるというこの発表は、邪馬台国の所在地論争に油を注ぐこととなった。魏志倭人伝による邪馬台国の卑弥呼が魏の明帝に朝貢したといわれるのが239年、その卑弥呼が亡くなったといわれるのが247年248年頃、時代感が合い、また、その時代の鏡とも言われている画紋帯神獣鏡も出ている。という。
対論は後に機会があれば。
(H15年3月22日)

吉野ヶ里遺跡
(よしのがりいせき)

平成元年2月に発見された弥生時代の日本最大級の環濠集落跡。所在地である神崎・背振という町村名からも分かるとおり、古の香りのする土地柄なんでしょう。
堀で村の周囲を囲むという発想からは、富の移動や権力支配が想い起こされ、やはり弥生時代は戦いの始まりであったことを痛感する。
(H15年3月22日)

平原王墳
ひらばるおおふん

台与
(と よ)
皆既日食
やたの鏡
弥生時代
踏み返し鏡
縄文時代
中国鏡
三内丸山遺跡
北部九州
落葉広葉樹
畿内
常緑広葉樹
大和政権
三々五々移住
三国志
日本人像
魏呉蜀
集団水稲